話を聞くモード

話をするモードは2つ持っていて

 

1つは、論理的にきっちり詰めていくモード。

相手の発する言葉の意味を確認しながら、互いに前提を共有して地に足がついた議論を行うモード。

 

もう1つは、推察モード。

自分の持っている、相手に関する前提の中から相手の言葉の意味を推理しつつ

会話を読んでいくモード。相手に意味を尋ねるようなことはしない。

印象だけの合意形成で事足りるなら、こっちを使う。

物事を見つめる姿勢

今まで自分は、自分の出会う物事に対して「こういうこともある」という、よく言えば寛容な、悪く言えば鵜呑みにする姿勢をとってきた。

 

この姿勢にどこか問題点がありそうなことにはつくづく気づいていたが

いざ自分が文章を書くという立場になろうとしてみて改めて自覚した。読んできた本のエッセンスが、触れ合ってきた人々の考えが、脳みそをいくら絞っても出てこない。

 

今まで自分が(自分の中においてでも)人の考えとの対立ないし批判的な視線を持つことを、わざと避けてきたことの代償なのだろう。

その姿勢によって心の平穏、ハッピーな気分は得られたが、人間的な成長はほとんど果たしていないではないか。

 

どうして果たしてこなかったのであろう。

 

少し回り道をする。

僕の性格として、ある行動が「(自分で納得していないが)しなければならない」とカテゴライズされると

その行動をとるための必要エネルギーが3倍に跳ね上がる。

人は誰しも、こういった必要労力が増加することはあるだろうが、僕においては比較的その傾向が強いと思う。

このようにして色んな行動を後回しにしていった結果、その行動を「しなければならない」と意識する度にエネルギーが失われる。どこかで外発的動機に頼らなければブーストが行えない。

このように行動が出来ていない自分への呵責が常に行われた結果、自己肯定感が損なわれてゆく。なぜその行動をすべきだったかも分かっていないまま。

 

こうして新しい行動をするためのエネルギーが不足し、なおかつ自己肯定感が損なわれている状態で、健全な思考を行うのは難しい。(健全な思考とは、物事や思考の本質に近づくような疑問を積み重ねること、とする。)

なぜなら、すべきことが出来ていない時の自分は、物事の本質など見向きもしないのだから。

「行動できていない自分」をどうするかで頭がいっぱいなのである。

 

行動しないが悪いのではない。「行動できていない自分」は、もう確かに存在するのである。

今の自分であれば行動できていない理由や、どういう動機づけな行動が出来るかを考えるだろうが、

昔の自分は、それこそ過去の自分に遡って(変えることは出来ないのに)、後悔や自責を繰り返していた。思考の浪費どころか、思考の自傷行為である。

 

そんな思考の自傷行為の何が良かったか。何の問題解決にもならないのに。

それは、何も解決せずに「行動できない自分」に甘んじることで、解決した後の新しい悩みを背負い込まなくて済むのだ。

解決した先には、もっと困難な悩みが待ち受けているかもしれない。それなら、まだ解決可能性が今の自分にも見えるこの問題に取り組んでいる姿勢をとっていれば、まだマシだ...

というわけだ。

 

以上ぐだぐだと書いてきたが

スリップ状態*1の自覚を持ちながら、それを直そうともせず、倒し方の分かっているザコ敵との戦闘に何十ターンもかけている。

 

だから健全な、建設的な思考が出来なかったというわけだ。

 

そしてもう1歩本題に戻すと

 

そういう進歩の無い自分でも人間関係を上手く構築するために、相手のありのままを受け入れる必要があった。どんなことに対しても「こういうこともある」とか、他人のどんなところにもまず「そういうのアリだね」と受け入れてみる姿勢が生まれたのは、この瞬間だ。

 

この姿勢はどんな物事も前向きに捉える、良い姿勢だと思っていた。しかし、裏を返せば、自分の信念と 外部概念や他者の信念 との対立を避けるため、自分自身や、外部に対して自分が為した評価を見直す機会を捨てていたのだ。

 

自分のこだわり・考え方・外部刺激の受け取り方が本当にそれでいいのか見つめ直す機会は日常にすらも溢れていたはずなのに、それを「こういうこともある」という甘い受け取り方によってろくに思考もせずに放棄していたのだ。

 

結局、自分でもダメだと言っていた「過去の自分の自責」に終始してしまったが

これからもう少し創造的な読書をしようと思う。本の中身を他人に話せるように。自分の考えと比べられるように。何の考えも無ければ、考え自体を構築できるように。

そして、人に対しては、引き続き、局面を考慮しつつ、可能かつそうすべきと自分が納得した時は自分の信念を押し通すようにしよう。

*1:ゲーム 「Final Fantasy」に登場するステータス異常で、戦闘中徐々にHPが減っていく状態のこと。

良い文章が書きたい。

自分の中に、「文章が書けるようになりたい」という自分が居た。

定義を補足して、「良い文章が書ける」という状態になりたいとしよう。

 

ここで、「書く」という動詞の定義はあまり重要ではないので

「良い文章」とはなんぞや?という疑問に入る。

 

「良い文章」とはなんぞや。この概念をどれほど細かい解像度(大きい画素数)で把握しているかが、文章の上手さの度合いでもあるだろう。

 

何の本も読まずに、今自分の思う「良い文章」の構成要素について考えてみる。

 

・主題が一貫していること。

何か意見を含めた文章の場合、である。

もし主題が曖昧で、読み途中で着地点が見えない場合は、読者は「今読んでいる部分が、全体の論理構成の中のどういう役割を担う部分なのかが分からない」という不安を常に抱きながら文章を読むことになる。足場がぐらつくので、読みながら自分の中で咀嚼したり発展した思考をするのにとても不便である。

また、文章そのものにとっても、根拠が弱く、説得力に欠けるものになってしまう。

 

・主題が目新しいものであること

これは、先述の「一貫性」との相乗効果である。一貫性があり、説得力があればあるほど、効果は増す。

読者がすでに知っている言葉・概念・知識を材料に、読者にとって未知の料理を披露して見せることだ。

読む人の世界を広げるインパクトは、何よりも「読んで良かった」と思わせるものであろう。

 

・要旨が味わい深いものであること

これは芸術的な意味でもある。

例えば、文章ではなく俳句だが(今日テレビで見たやつ)

「七輪や 秋刀魚と酒と オヤジ女子」の、上の句を「失恋や」に変えると

「失恋や 秋刀魚と酒と オヤジ女子」と、一気に色んな想像が湧くようになる。

 

俳句に限らず、文章にも、評論でなければ読者の想像を誘うような表現があっても良いと思う。書き慣れていない僕にとっては高等なテクニックに見える。

 

・主題が、読者の関心に沿っていること

興味が無ければ、持たせれば良いだけではある。

 

今の文章観では、「良い文章」についてはこんなところである。

もしこれを読んだ方で何か思うことがあるならば、ぜひ僕にお考えを聴かせてほしい。

 

これからもっともっと解像度が細かくなっていくことを期待したい。

理想状態をゼロから考えること

久しぶりに、頭の整理のために記事を書いてみる。

友達との約束までのヒマつぶし。

 

インターンシップで学んだことの咀嚼でもある。

僕にとって一番役に立つと思ったもの。

 

・理想を考えて、それを遂行すること

ある理想の状態を考えたとする。それに対して、目を向ける。

その理想が、本当に(自分に/相手に)メリットがあるものかどうか。

そのメリットが大きいかどうか―――つまり、メリットの単純な大きさ、現れる頻繁さ、自分の現状に対する改善策になっているかどうか。

理想について、考え得るメリットの構成要素はすべて考え尽しているかどうか。同時に実現できるメリットは無いかどうか。

 

そういう理想をいくつも書き並べ、メリットの大きさ順に並べる。合わせて、実現難易度も書いておく。

それで、上から順に本気であらゆる手を使って実現方法を考える。

 

重要なのは、「実現の可能・不可能」について一切考慮しないこと。

方法ベースに考えてはいけない。

 

「自分が『これがこうなら絶対に良い』と確信できる理想」を持つこと、これが行動力の源泉になると思う。