良い文章が書きたい。

自分の中に、「文章が書けるようになりたい」という自分が居た。

定義を補足して、「良い文章が書ける」という状態になりたいとしよう。

 

ここで、「書く」という動詞の定義はあまり重要ではないので

「良い文章」とはなんぞや?という疑問に入る。

 

「良い文章」とはなんぞや。この概念をどれほど細かい解像度(大きい画素数)で把握しているかが、文章の上手さの度合いでもあるだろう。

 

何の本も読まずに、今自分の思う「良い文章」の構成要素について考えてみる。

 

・主題が一貫していること。

何か意見を含めた文章の場合、である。

もし主題が曖昧で、読み途中で着地点が見えない場合は、読者は「今読んでいる部分が、全体の論理構成の中のどういう役割を担う部分なのかが分からない」という不安を常に抱きながら文章を読むことになる。足場がぐらつくので、読みながら自分の中で咀嚼したり発展した思考をするのにとても不便である。

また、文章そのものにとっても、根拠が弱く、説得力に欠けるものになってしまう。

 

・主題が目新しいものであること

これは、先述の「一貫性」との相乗効果である。一貫性があり、説得力があればあるほど、効果は増す。

読者がすでに知っている言葉・概念・知識を材料に、読者にとって未知の料理を披露して見せることだ。

読む人の世界を広げるインパクトは、何よりも「読んで良かった」と思わせるものであろう。

 

・要旨が味わい深いものであること

これは芸術的な意味でもある。

例えば、文章ではなく俳句だが(今日テレビで見たやつ)

「七輪や 秋刀魚と酒と オヤジ女子」の、上の句を「失恋や」に変えると

「失恋や 秋刀魚と酒と オヤジ女子」と、一気に色んな想像が湧くようになる。

 

俳句に限らず、文章にも、評論でなければ読者の想像を誘うような表現があっても良いと思う。書き慣れていない僕にとっては高等なテクニックに見える。

 

・主題が、読者の関心に沿っていること

興味が無ければ、持たせれば良いだけではある。

 

今の文章観では、「良い文章」についてはこんなところである。

もしこれを読んだ方で何か思うことがあるならば、ぜひ僕にお考えを聴かせてほしい。

 

これからもっともっと解像度が細かくなっていくことを期待したい。