物事を見つめる姿勢
今まで自分は、自分の出会う物事に対して「こういうこともある」という、よく言えば寛容な、悪く言えば鵜呑みにする姿勢をとってきた。
この姿勢にどこか問題点がありそうなことにはつくづく気づいていたが
いざ自分が文章を書くという立場になろうとしてみて改めて自覚した。読んできた本のエッセンスが、触れ合ってきた人々の考えが、脳みそをいくら絞っても出てこない。
今まで自分が(自分の中においてでも)人の考えとの対立ないし批判的な視線を持つことを、わざと避けてきたことの代償なのだろう。
その姿勢によって心の平穏、ハッピーな気分は得られたが、人間的な成長はほとんど果たしていないではないか。
どうして果たしてこなかったのであろう。
少し回り道をする。
僕の性格として、ある行動が「(自分で納得していないが)しなければならない」とカテゴライズされると
その行動をとるための必要エネルギーが3倍に跳ね上がる。
人は誰しも、こういった必要労力が増加することはあるだろうが、僕においては比較的その傾向が強いと思う。
このようにして色んな行動を後回しにしていった結果、その行動を「しなければならない」と意識する度にエネルギーが失われる。どこかで外発的動機に頼らなければブーストが行えない。
このように行動が出来ていない自分への呵責が常に行われた結果、自己肯定感が損なわれてゆく。なぜその行動をすべきだったかも分かっていないまま。
こうして新しい行動をするためのエネルギーが不足し、なおかつ自己肯定感が損なわれている状態で、健全な思考を行うのは難しい。(健全な思考とは、物事や思考の本質に近づくような疑問を積み重ねること、とする。)
なぜなら、すべきことが出来ていない時の自分は、物事の本質など見向きもしないのだから。
「行動できていない自分」をどうするかで頭がいっぱいなのである。
行動しないが悪いのではない。「行動できていない自分」は、もう確かに存在するのである。
今の自分であれば行動できていない理由や、どういう動機づけな行動が出来るかを考えるだろうが、
昔の自分は、それこそ過去の自分に遡って(変えることは出来ないのに)、後悔や自責を繰り返していた。思考の浪費どころか、思考の自傷行為である。
そんな思考の自傷行為の何が良かったか。何の問題解決にもならないのに。
それは、何も解決せずに「行動できない自分」に甘んじることで、解決した後の新しい悩みを背負い込まなくて済むのだ。
解決した先には、もっと困難な悩みが待ち受けているかもしれない。それなら、まだ解決可能性が今の自分にも見えるこの問題に取り組んでいる姿勢をとっていれば、まだマシだ...
というわけだ。
以上ぐだぐだと書いてきたが
スリップ状態*1の自覚を持ちながら、それを直そうともせず、倒し方の分かっているザコ敵との戦闘に何十ターンもかけている。
だから健全な、建設的な思考が出来なかったというわけだ。
そしてもう1歩本題に戻すと
そういう進歩の無い自分でも人間関係を上手く構築するために、相手のありのままを受け入れる必要があった。どんなことに対しても「こういうこともある」とか、他人のどんなところにもまず「そういうのアリだね」と受け入れてみる姿勢が生まれたのは、この瞬間だ。
この姿勢はどんな物事も前向きに捉える、良い姿勢だと思っていた。しかし、裏を返せば、自分の信念と 外部概念や他者の信念 との対立を避けるため、自分自身や、外部に対して自分が為した評価を見直す機会を捨てていたのだ。
自分のこだわり・考え方・外部刺激の受け取り方が本当にそれでいいのか見つめ直す機会は日常にすらも溢れていたはずなのに、それを「こういうこともある」という甘い受け取り方によってろくに思考もせずに放棄していたのだ。
結局、自分でもダメだと言っていた「過去の自分の自責」に終始してしまったが
これからもう少し創造的な読書をしようと思う。本の中身を他人に話せるように。自分の考えと比べられるように。何の考えも無ければ、考え自体を構築できるように。
そして、人に対しては、引き続き、局面を考慮しつつ、可能かつそうすべきと自分が納得した時は自分の信念を押し通すようにしよう。
*1:ゲーム 「Final Fantasy」に登場するステータス異常で、戦闘中徐々にHPが減っていく状態のこと。